大東亜戦争後、「日本=侵略者、だから原子爆弾を落とされた。」「靖国神社にはA級戦犯が祀られているから参拝してはいけない。」そんな教育をうけてきました。そして腰の引けた中国・韓国外交を目の当たりに育ちました。こんな状況で育てば日本人として誇りを持って生きることが出来るでしょうか。
我々の世代も戦勝国によって捏造された歴史・自虐的価値観に洗脳されています。さらに今の中高生は50%しか日本人であることに誇りをもっていない、という新聞記事を目にしました。教育というのは恐ろしいもので日教組により自分のような人間が今この瞬間も作り出されています。
社会に出て10年が過ぎますが、多忙で仕事に忙殺されている同世代にこの本を読んでもらいたい。そして子供達に正しい歴史を教えてほしいと思います。 台湾の年配の方は真実を知っている!他の方と同じですが、日本人としての誇りを取り戻せる本です。戦時中の本と言うと、辛く痛々しいものを想像しがちですが、本書はまったく違います。前半は台湾人と日本人の交流が描かれており、戦時にもかかわらず、何ともいえない人と人との暖かい関わり合いを感じました。後半、日本人が台湾を出てから、入ってきた大陸の中国人について、彼らがいかに日本人と違っていたか、そして、台湾人に何をしたかが書かれています。常に自分の被害だけを大げさに前面に押し出してヒステリックに行動する中国人の姿に、ついつい引いてしまいがちでしたが、チベットといい、台湾といい、中国人のやり方がどういうものかがよくわかりました。この本を読んで、日本人をこんなに想って下さる方の存在を知ることが出来、非常にうれしく思いました。筆をとってくださった著者に感謝します。
このシリーズはいくつか読んだが、著者の取材力や構成力は認めるが、いまひとつ姿勢に賛同出来ない部分がある。変に斜に構えて現代文明を批評する態度である。著者が考えるようにかつての日本は不便でどうしようもない暗黒世界であった、現代文明・西洋文明万歳といったようなステレオタイプの思考は殆ど存在しないであろう。西洋文明の代わりに江戸のリサイクル文明を御輿に担いでいるだけで、ひとつの尺度から他を測ろうとする態度は結局は著者が批判したがっている(批判したつもりでいる)人々の思考態度と何ら変わりのないものに見えてくるからである。 手本とすべき事例は日本の歴史の中にある今、環境問題が深刻化しています。エネルギーを始めとする天然資源は過剰消費され、廃棄物処理場は不足し、温暖化ガスは増加する一方です。国を挙げた省エネ、リサイクル、バイオマスの活用が求められており、北欧やドイツにおける成功例が多く紹介されています。しかし、これらの取組は、人口、気象条件、社会条件が異なる我が国では、必ずしも成功するとは限りません。
江戸時代、我々の御先祖様は、植物、つまり短期間に国土に降り注ぐ太陽エネルギーだけを徹底的に活用した循環型社会を築いていました。決して豊かな生活ではありません。明かりは字も読めないほど暗く、移動手段はすべて徒歩、あらゆる日用品は何度も使い回されていました。しかし、江戸の人口は西欧諸国のどの首都よりも多く、屎尿処理などの廃棄物問題にも、エネルギー問題にも無縁でした。現代に比べれば不便。でも決して劣ってはいない。我が国の財産を徹底的に生かし切って、300年近くも持続した社会があったのです。
「伝統と文化」がなぜ大切なのか。本書を読めば自ずから理解できます。我々の未来のために、先人の知恵に学びましょう。 良著。大都市大江戸の生活の知恵を学び、現代に活かそうという本。生活の知恵といっても具体的なハウ・トゥではなく、そこにある草の根の思想を学ぶことに意味があります。
一昔前は便利さの追求は人間性を損なうかのように豊かな国の人間は人生論のような本で教えられたものですが、エコということばが浸透してきた世の中では便利さが人間に危害をもたらす遠因となることを教えられました。しかしこの思想は無意識的に江戸の庶民にはあった感覚でそれを忘れて、又は捨ててしまったのが現代の人間なんだと教わりました。今あるものの再利用を考えるより、今あるものが「本当に」必要なものかを問う。「足ることをしる」。そんな考え方を失ったつけは当然サイクルしてきているという現実はなんとも滑稽です。
江戸時代以降「非人」などと呼ばれて差別の対象とされてきた人々は、古代にあっては人と異界の狭間に暮らす「人ならぬ存在」すなわち「聖なる存在」であったと著者は喝破します。農業以外の生業に携わり、特殊な技能によって社会に関わった彼らは、天皇直属の隷属民であり、その他の人々とは異なる存在と観念されつつもけして差別される者ではありませんでした。そして彼らの柿色の衣装をまとい、頭を布で覆うという出で立ちは、「異形」と呼ばれ、「人ならぬ者」の象徴と考えられていました。そして「非人」とされる人々以外でも、時に応じてこのような姿になることで自ら非日常の世界に入り込もうとする態度が見られたことが文字史料や絵画資料をもとに論証されています。
ところが鎌倉時代後期からこのような様相は変化をはじめ、「非人」たちは差別・侮蔑の対象へと貶められるようになります。この本では仮説として示唆されるだけですが、「非人」たちを自ら権力基盤として積極的に利用しようとした後醍醐王権のあり方が一つの画期になったのではないか、と著者は提起しています。
民俗学と歴史学の強調、絵画資料の利用などを積極的に進めようとする著者の態度はこれから歴史学が模索すべき道の一つを示しています。また、現在も生々しい差別が残る問題ではありますが、このような問題関心は我々の聖性に対するイメージの変遷を浮き彫りにするよすがになるのではないでしょうか。著者の論証は(飛礫の問題など)まだ一部思弁的でこなれていないところもありますが。 なお、冒頭から読むより、まず最後の「異形の王権」を読んで、しかる後に冒頭に戻って読む、という進め方の方が理解が早いかも知れません。