最初から比べるとだいぶ時代が下ってきて、とくに戦国時代ならではの個性的な役者ぞろいで、一気に読めてしまいます。また時代が下ってきて、古代のものに比べると資料が豊富にあるためか、キャラクターがますます生きいきとしています。氏の視点は、いつの世も人の営みの本質は変わらない、という哲学に基づいているようです。なんでも鵜呑みにするのではなく、特に公式発表などは、まずは疑ってかかること、またどうしてそういう発表のしかたになっているのか、その裏の裏まで読んでみる、そんな知的努力が必要だ、そんなメッセージがこめられているように感じました。
日本という共同体を考察する上での、これが正しいかどうかは別として、有効な視座を提供してくれるように思います。 いよいよ織田信長登場9巻が文庫化となりました。いよいよ織田信長の登場する時代に突入しました。織田信長の先見性や天才性の分析がなされています。
エポックメイキングな人が出ると、それ以前の「それ」が無かった時代のことが想像できなくなるのが人の常です。エレキギターの奏法ではエディ・ヴァン・ヘイレンのライトハンド奏法、イングヴェイの登場による「イングヴェイ以降」という言葉。推理小説では、綾辻行人がデビューしてからの新本格派隆盛の「綾辻以降」という言葉。。
秀吉も家康も現代の私達も、まさに信長のやった画期的なことを「新たな常識」と捉えている「信長以降」の常識に生きていることを痛感させられる一冊です。 やはり面白いが古代あたりからはパワーダウン?好きなシリーズなので文庫がでたら殆ど惰性で買い続けている。古代からはじまり鎌倉辺りまではとても面白かったのだが、室町あたりから(私の興味もあって)ややマンネリ?気味。実は素人には歴史学は見えにくくて、どこまでは100%ファクトで、どこからが推論に基づくものなかが分りにくいのです。少なくとも「間違いなく事実」「ほぼ事実認定」「異説あり」「ガセ」ぐらいを、有名トピックスや史料由緒ごとに確からしさをスコアリングして総覧解説をだれが編纂してほしい。啓蒙書レベルでいいから。本シリーズも要は「間違いなく事実」といわれているものへの画期的な新設提示なのか、もともと「異説有り」レベルの史実・史料へのまさに異説紹介だけのものなのか???なのだ。古代あたりはさすがにほとんどが「推論」だろうから純粋に「ロマン」として、いわば答えのない謎解きゲームにのれたのだが、時代が降りるにつれ、なまじっか史料もリアルさが増してくるんで、その程度を鑑みないと興ざめするのではなかろうか。
鎧のことを少しかじってみようという方でもお勧めです。 自分の所蔵品を嘘の伝来で塗り固めた本森蘭丸具足だの秀吉陣羽織だの自分の持ち物を博物館所蔵の名品に混ぜて紹介している。時代の合わぬものばかり。あきれるばかり。 甲冑本の極めつけ!いままで多くの甲冑本をみてきましたが、これは究極の一冊です。有名な甲冑の概ねを一冊にまとめた本はこれくらいでしょう。以外にいままでそういった本は無かったのです。あったとしてもこれほど安価ではありませんでした。さらに、特徴的な意匠の兜や陣羽織にもスポットを当てており、まったく一分の隙もありません。
初心者はこの本で当世具足(戦国期の甲冑)の魅力を知る事ができ、またマニアもその充実ぶりに十二分の満足を得る事でしょう。戦国時代に少しでも興味があるなら絶対に買うべし。本田忠勝に伊達政宗、愛の前立て・直江兼続の具足など、も〜堪りません。そのうえ、あの『鬼武者』の具足もあったり、何度見ても凄いですよ、この本は。
江戸時代以降「非人」などと呼ばれて差別の対象とされてきた人々は、古代にあっては人と異界の狭間に暮らす「人ならぬ存在」すなわち「聖なる存在」であったと著者は喝破します。農業以外の生業に携わり、特殊な技能によって社会に関わった彼らは、天皇直属の隷属民であり、その他の人々とは異なる存在と観念されつつもけして差別される者ではありませんでした。そして彼らの柿色の衣装をまとい、頭を布で覆うという出で立ちは、「異形」と呼ばれ、「人ならぬ者」の象徴と考えられていました。そして「非人」とされる人々以外でも、時に応じてこのような姿になることで自ら非日常の世界に入り込もうとする態度が見られたことが文字史料や絵画資料をもとに論証されています。
ところが鎌倉時代後期からこのような様相は変化をはじめ、「非人」たちは差別・侮蔑の対象へと貶められるようになります。この本では仮説として示唆されるだけですが、「非人」たちを自ら権力基盤として積極的に利用しようとした後醍醐王権のあり方が一つの画期になったのではないか、と著者は提起しています。
民俗学と歴史学の強調、絵画資料の利用などを積極的に進めようとする著者の態度はこれから歴史学が模索すべき道の一つを示しています。また、現在も生々しい差別が残る問題ではありますが、このような問題関心は我々の聖性に対するイメージの変遷を浮き彫りにするよすがになるのではないでしょうか。著者の論証は(飛礫の問題など)まだ一部思弁的でこなれていないところもありますが。 なお、冒頭から読むより、まず最後の「異形の王権」を読んで、しかる後に冒頭に戻って読む、という進め方の方が理解が早いかも知れません。
原資料の順序を変え、トピックごとにまとめたことにより読みやすくなっている。
残念なのはこの文庫版が作られるにあたって、ハードカバーにあった訳注などが削られてしまったことであるが、それでも十分な歴史資料であるし、この手の一次資料として破格の安値となっているのがうれしい。
中学校で習ったのは、ザビエルと天草四郎と家光による鎖国令くらいで、天正少年使節については記憶に残る程には習わなかった。高校では、歴史は世界史を選択(個人のことですみません)。が、いずれにせよ、こんなに濃密にこの時代とキリスト教、少年使節の足跡などを著者と歩むと、今までとは違った歴史観を持つことになる。つまりこの時代は、日本も世界、特にヨーロッパ諸国やアジア諸国と対等につきあい始めていた(少年達も滞欧を通じそれが出来るまでに成長した)し、キリスト教の日本への浸透も、常識以上に広範なものがあった等々、新しい視点にたたされることとなる。それだけに、たとえば、ナチスのユダヤ人絶滅計画に比される程のキリシタン弾圧とその屍の上に築かれた鎖国体制は、また常識と違った意味合いをもったものに見えてくる。とすると、明治以後の歴史までも見直したくなる。本書は、それほどの力作。
女性の目から見たキリスト教や仏教、歴史書の批判的読み方、宗教の優しさと残酷さ、世界や歴史においてもっとも大事なのは何か、等々、要所々々で示唆してくれるところも読んでいて面白い。
緑陰もよし、秋の夜長も、暖炉の前もよし、じっくりと読んでご覧になることをお薦めします。なお、少年使節達の足跡をひととおり詳しく追うには、松田毅一(著)「天正遣欧使節」(講談社学術文庫)がお薦め。 丹念に史料を調べた力作 バチカンなどに残る外国の史料を中心に、膨大な文献に基づいて、4人の少年使節やその周囲の宣教師、大名をはじめとするキリシタン関係者、信長や秀吉、スペイン王、ローマ法王といった時の権力者達、そして名もなき民衆や信者達の行動と相互の関わりを読み解いている。キリシタン史の解説本としても秀逸だが、筆者は、権力者や支配組織の視点で歴史を見下ろすのではなく、むしろ、信仰に生きる個人の側に暖かい眼差しを注いでいる。歴史好きにはぜひお薦め。 この作者ならではの歴史の世界天正少年使節は、知ってるようで知らない世界であった。中浦ジュリアンの史跡を昨年たまたま通りがかりにたずねなかったら、この本を読んではいなかった。しかし本の厚さにたじろぎながらも、読み始めると一気に読めた。作者が美術が専門であるだけに、出てくる登場人物の衣装の色や形への言及も細かく、これだけでも今までの歴史書にはない視点であり、読みながら、華やかなローマやフィレンツェでの使節の様子が映画のように目に浮かぶ。それだけにまた、少年達の運命の過酷さは痛ましい。時代という大きな歯車は、信長も秀吉も家康も飲み込み、地球規模での歴史の流れに、だれも逆らえなかったのかもと苦い思いを抱く。「渾身の」という形容詞がぴったりはまる力作。 世界が日本を見た 日本が世界を見た実に分厚い。500ページを超える大著である。
が、読むだけの価値がある。日本と世界のかかわりという問題を「天正少年使節」を手がかりに考えさせる好著である。
当時の世界の状況から、日本社会の問題点まであまさず解き明かしながらも、非常に平易で読みやすい文章にまとめている。
また、この時代の日本人がヨーロッパに赴いて
各地で大歓迎を受け、多くの人々に好印象を与えていた事実に強い感銘を受けた。
それにしても歴史の中で犠牲者となるのは、いつも弱く名もない庶民なのだ。
世界を見るべく四人の少年たちが希望に燃えてヨーロッパに向かった姿とは裏腹なつらい後半生には胸が痛んだ。
最後に穴につるされて殉教する中浦ジュリアンの姿を
描いて終わっているが、作者が書くようにきっと年老いた彼の目に最後に映ったのは、船上で笑いあう四人の少年たちの姿だったのだろう。