この事件を契機として天皇の「統帥権」なるものの考え方が形作られ、権力の二重構造による軍部の独走という素地が生まれてくる。
時の首相、田中義一は、この事件の処理を巡って天皇の叱責を受け、辞任に追い込まれた。しかし、この叱責事件は、本来、統帥権というものの本質を、昭和天皇が十分理解していたならば、あるべきではなかったことなのだ。
本書は、この張作霖爆殺事件の誤まった処理が、日本をあの戦争へと駆り立てた大きな原因となった経緯を、天皇の「統帥権」なるものを詳細に分析することによって明らかにしたものである。
首相叱責事件を、反省した天皇は、その後、「もの言わぬ天皇」となっていったことが、これまた、日本の戦争への道に加速をつける結果になったのではないかなどの指摘を含め、本書によって、日本の昭和史における張作霖爆殺事件の重要さを改めて知らされた。
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司馬史観とまで言われている司馬氏ですが、「昭和」を題材にしたものは、実はほとんど残されませんでした。その理由として、別の対談の中で「ぼくは五・一五や二・二六事件は非常にきらいです。あの連中に迷惑をこうむったのはわれわれ庶民で、その怨念が猛烈にある」「私にノモンハンを書けというのは死ねということだ」と語られています。
実際、満州の陸軍戦車学校を卒業して見習士官となった司馬氏は、その戦争体験から第1章で次のように結論づけています。「なんとくだらない戦争をしてきたのかと、まず思いました。そして、なんとくだらないことをいろいろとしてきた国に生まれたのだろう」と批判しています。
司馬氏はさらに、戦前の日本は日本の軍部すなわち参謀本部という占領軍によって支配されていた国として糾弾しています。そして、立法・行政・司法の三権を超越した「統帥権」を軍部が握り、終戦に至るまで暴走し続けて、自らの意図を以って日本を引きずりまわした、ということを語られています。
司馬氏が語られるように、満州事変、ノモンハン、太平洋戦争での軍部の行動は、すべて独断専横で独裁的でした。そしてこうも語られています。「日本の軍部は独裁的になっていきました。しかし、独裁者を出さない国であり、独裁者なき独裁でした。」「そんな権力者が出てきて太平洋戦争を遂行したのです。」と締めくくられました。
戦前の「昭和」という時代が、なぜ滅亡に向かってころがっていったのかを、もう少し皆で考える必要があると感じます。戦争を美化することなく、二度と戦争を起こさないためにも、歴史に学ぶ必要を再確認した思いです。 昭和という国家司馬さんが昭和について書かれたものは非常に少ない。そんな司馬さんの「昭和という国家」である。どれほどのものかを想像してほしい。司馬さんは大正末〜敗戦までの日本を「魔法の森の時代」と捉えている。わたしは司馬さんがおおいに好きだが、この本はあまり好きではない。結局、司馬さんは昭和という国家を説明できていない。司馬史観といわれるほどの天才でも、説明できていない。いくら冷静に物事を見ても、司馬さんはわれわれと同じ人間だ。自分の現に生きている時代までもを客観視することはできないのかも知れない。司馬史観の限界が本書に現われている気がする。
子どもが、子どもだった昭和が鮮やかに甦ります。日常の生活の中の一服の清涼剤。優しかった母。厳しさの中に、さりげない愛情を注いでくれた父。乳母車をおして保育園にまで迎えに来てた祖母。肩車して、柿をもがせてくれた祖父。引っ越しの時、自分が大切にしていたプラモを無理矢理受け取らせて、「さよなら。」も言わずに去っていった竹馬の友。懐かしいあの時代に出会えます。
もちろん、そんな放談だけではなく、ソ連やアメリカから出てきた新史料をもとに、新しい議論も繰り広げられていてためになる。東南アジア侵略の意図が、解放という結果を正当化するものではなく、またその逆も言えるという見解にはかなり同意できる。日本は戦闘に負けただけではなくて、理論の面でも敗北し、それが今なお尾を引いている。
新しい事実を発見し、時には自由に空想を膨らませ、今までとは違った光を当てていくことが、新しい歴史解釈を生むであろうことを知らしめてくれる好著。放談の中に確かな成果物がある。 楽しい「座談会」として。座談会の常として、参考資料の提示がないために発言の論拠が不明、といういらだたしい欠点があるが、全体としては興味深く読んだ。
とはいうものの、気のせいだろうか、折につけ「昭和の日本は軍も政府もバカだった」とあざ笑っているような気配が行間から染み出してくるようで不愉快になった。座談会だから楽しく、というのが原則なのかもしれないが、それにしても気になる。貴方達はそんなに賢いの?貴方達がそこにいれば何とかなったの?と聞きたくなってしまった。
一方、『盧溝橋事件の研究』や『従軍慰安婦たちの春秋』などでは実証的研究で満足させてくれた秦郁彦氏が、こと南京虐殺問題では妙に推測・憶測でものを言っており、気をつけて読んでいると、他の人も「・・・・なんじゃないか」とか「・・・・のような気もする」などとあやふやな物言いが多い。
結論。これは研究書ではなく、あくまでも楽しい座談会として読むべし。
成長の原動力についての議論は、輸出主導という考え方を一応退けているが、そのあたりの分析を、著者のほかの本で読んでみたくなる。